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切り揃える

案の定、伸ばしていた髪を切った。

実は伸ばす気でいて、今日はどうしますか?と聞かれたのでやはり長さそのままで揃えてもらえますか?と話して一通り終えた。鏡に映る髪になにか違和感を感じながらまぁ伸ばしてる最中だしなぁなんて思っていたのだけど、美容師の方に仕上がりの説明を聞いている時にドキッとしてしまった。

「ショートから伸ばしてるから、実は長さがバラバラなんですよね」

何故かすごいドキッというかギクッとしてしまった。というのも、まるで自分のことだったからだ、あれこれ付け焼き刃のように覚えては慣れて、伸ばす前にまた次へといって。てんで長さがバラバラなのがまるで一緒だったからだ。
なので、一番短いので切り揃えてくださいと言って、髪を切り揃えたのだった。

髪が伸びた

髪が括れるほどに長くなった。

いつもの私は、長くなって見た目がすごく女性的になるのもなぜか自分で耐えられなくて、短い方が楽で(放っておくのが楽ということもある)、クセで髪の毛をいじってしまうから「あ…また髪の毛いじってるな」って自分に気がつくと頃合いだと切りに行って、美容師に「短いのが似合う人はいいことなんですよ」なんて言われてえへへそうかなあなんて思っていた。

「今日どうします?」っていう言葉にいつもなら「ばっさりお願いします」というところをなんとなく「長さそのままで整えてもらっていいですか」とか言ってるうちに肩まで伸びた。ここまで長いのは何年振りだろうか、逆にせっかく伸ばしたんだからとか考えてしまう。選んで短くしていた頃と生活や自分の顔つきが変わってきたようで、長かったり括れるのも悪くないんじゃないかなとか思うようになったけど、切ろうか染めようかどうしようかなとか考えるのも悪くないんじゃないかなって思っている。

とかいってバサッと切るんだろ、節操がないな。

生きていればなんとかなる

わけないと思うし、勝手に幸せになったりも救わたりするわけもないと思う。
自然の成り行きというものは信じている。草も花も、水や空気というものがあって生きることができる。しかし動けないし外的要因があったりして半ばで枯れることもある。これは草木は自ら選べないが私は選べる。それに比べたら、生きているのだから生きていればなんとかなる。これは条件である。ある程度の運命は変えたり選ぶことができるんだから自分から幸せになれと思う。
なのに、なぜ勝手に幸せになると思っているのか。生きろ。

連休の過ごし方

GWとにかく何も考えずにゆっくり過ごした、時間が取れたらやりたいこと。とかはあったのだけどそういうのも変に義務感みたいになってしまって、できなかったら1日の満足度低いと感じてしまうので、そういうのもやめた。
あと少し前から言っていたSNSなんか疲れた、というのもまあ結局自分の距離感なんだろうな、ってことにした。インターネットで疲れるなんてこと自分にはないと思っていた。そういえば自分はインターネットは好きとかではなくて当たり前に存在してるものとして認識していて(デジタルネイティブ世代ではないけどSF映画だとかゲームだとかそういうもの見ていたので違和感がなかったのかもしれない)ネットに出会ったのは15年以上前の話なのだけれど、時代が変わってネットはもう社会になってしまったので私の「当たり前」が今はもう変わったのだと思う。懐古的になってしまうのは良くないと思うのだけど、流れに身を任せるのもよくはないので、まあ距離感なのだな、ということにしている。インターネットが発達して進化しても使う人間は特に進化していないので当たり前だと思う。
で、明日からまた日常が始まるけれど、人と目を合わせて働きたい。私は人の一番好きな部位は目なのだった。

なんで書くのか
最近Twitterに疲れた、と思った。とたんに、疲れた、と思った。SNS、かれこれmixifacebookだコミュニケーション中心のもの10年以上横断して使っている。一番最初のインターネット体験はBBSとかだと思う。好きな絵を描いている作家さんのサイトのBBSに好きだと伝えるために書き込んだ。
で、最近何がどう違うのか考えていてコミュニティとかに疲れたんじゃないかと思った、人が嫌になったとかではない、視線や顔、面識を合わせていない人の言葉が受動的に受け取ることのズレが蓄積されたのだと思った。よく考えてみれば、コミュニケーションのためだったTwitterだったが、いつしか瞬間風速を捕らえるために使っていた。情報、私は情報(有益かどうかはさておき私の感性に触れたもののみ拾っていく)が好きで、無限に情報が流れてくるツールとしてTwitterもfbも活用していた。しかしここまで活用されるようになって優位性は無くなった、多分、私が現時点で知った情報は明日みんな知っている、ここに差はあるが特に意味はない。ディスっているわけではありません、あくまで自分の方法論の話です。タイムラインを見るの激減させて困ることがなくなった、手癖のようにアプリを立ち上げるのもやめた。そのかわりあなたの誰に向けたかわからない言葉を受け取れなくて少し寂しいです。画像中心のSNSを見ることが増えた、本屋に出向いて雑誌を買ってみたり前情報なしで新しい本買ってみたりした。何か知るためには自分から情報を検索することにした。結局のところ総じて摂取している情報量は減ってはいないと思う。でもそのうち物量に耐えかねて便利なものに走るんだろう。
そして、なんで書くのかという話の結論だけど、活字やテキストは残るものなので、これが何十年後にどういう影響を与えるかしらないけど、偶然にもこのブログのこのテキストを見て誰かが何か抱けばいいと思っているので書く。反応して生きていくのが人でありそのために何か伝えるのが人であるのではないかと私は思うので、なんでもいい、なんか大変そうですね、でも。私もそう思う、でも。何にも感じられないとしたら多分どちらかが不全なので、それもまたいいですね、という話だと思う。

今週のお題「私がブログを書く理由」

本日の終末感


女王蜂 『売春』(オフィシャルビデオ)

貴方が被害者、っていうのがいいですよね

春、どうも苦手という違和感があったんだけどずっと前に読んだ「桜の森の満開の下」のような気分で、四季があるのはいいものだと思いました。結局、繰り返していくのだというかんじですね。

そういえば2015年スパイ映画全部観てた

年始の話だけど、スペクターとMI:ローグネイション観た
MIは通常なら公開は終わっているんだけど、飯田橋にあるギンレイホールで割と再上映してたりしていて見逃してたものをスクリーンで観たい時に助かる、システムとしては1500円とかで入場できて、2本上映されるので居座れる昔の映画館って感じです。席も予約出来ないので割と早めに行って確保する感じ。ラインナップも2週間で入れ替わる。

で、2015年はスパイ映画充実してた。
面白いのがスペクターもMIも長年のシリーズものというのと、あらすじも似ているってところだった。

スペクターは、実はダニエルクレイグのシリーズ観てなくて、前作のスカイフォールの続編ということだった。のでまず理解が必要、あと全体的007の様式美みたいなものが少し煩わしく感じた。雰囲気はたっぷりで、スカイフォールを観たらよかったのかもしれない。Qはかわいかったです。

一方、MI:ローグネイションは組織に追われて孤軍奮闘するところという設定は割と前作から引き継いでいたのだけど、割り切って新しくして、様式美(おきまりのアレみたいなの)を無理なく展開した気がした。全体的にバランスがよくて、すごい楽しかった。

キングスマン、コードネームUNCLE、それぞれ観たけどMI:ローグネイションがよかったなぁというかんじです。